福島啓一先生からの投稿(便り)です。
【回想】1.「男女共学」「6・3制義務教育」混乱の中でのスタート
2.「渋谷区立外苑中学校」の誕生
3.「初代校長」下田先生のお人柄
1.「男女共学」「6・3制義務教育」混乱の中でのスタート終戦直後、GHQは今までの中学校・小学校の教科書の戦時教材を削除することを通達しました。ここに墨塗りの教科書が出現しました。
次に、教育の機会均等、普通教育の普及、男女間の差別撤廃、学校制度の単純化をあげた六・三制の学校制度が1947年4月にスタートしました。
この新教育の理想が高ければ高いほど困難な場面に直面しました。設備は荒廃しつくされ、特に、義務教育になった中学校の施設は決定的に不足していました。また、教科書の遅配、教師の不足も大きな問題でした。教室の不足のため青空教室、体育館での授業はもとより寺院や焼け残った工場の跡地などを使用しても生徒を収容しきれません。このような悪条件のもとで渋谷区立外苑中学校が誕生しました。
2.渋谷区立外苑中学校の誕生神宮外苑野球場の近くに外壁は黒く中は丸焼けの2棟の旧兵舎が建っていました。そのうちの1棟を旧制の都立第15中学校(現、都立青山高等学校)と新制の渋谷区立外苑中学校が校舎として使用していました。この旧兵舎は渋谷区と港区の境界線上にあり、どちらの区に所属するか正確にわかりません。そこで最初の1年間は都立外苑中学校という名称で発足しました。初代校長は下田克三先生です。
焼け残った建物内には粗末な教室、廊下は跳ねあがると床がぬけ落ちそうでした。最もひどかったのは今日では想像することのできない不衛生なトイレでした。また、学校にとっての必要な文具類の不足、その調達もままならない状況にありました。下田校長が最も苦労なされたのは外苑中学校の開設をつかさどる先生を集めるのに力を注いだ事で、からだの休まるときがなかったと思われます。
3.初代校長 下田先生のお人柄一口に申しますと「清廉・潔白」、「温厚・篤実」なお人でした。先生のお人柄を表している事を書いてみます。
私が外苑中に赴任してから4年目にPTAの会計をしてくれないかと頼まれました。お断り申しましたが他に引き受けてくれる人がおりません。君なら出来る、君を信頼しているのだ。1年間だけの約束で引き受けました。
毎月1回、教員側から校長先生と私が、PTA側から4、5の役員が出席されました会合です。
ある時、次のような話が出ました。野球部は毎日のように練習でガラスをこわすので困る。PTA会費から支出するのはどうかと思う。その時です。それでは私が弁償しよう。この子供達は小学校時代に縁故疎開、学童疎開で親もとを離れてどんなに寂しい思いをしたか、その上、食糧事情も悪くおなかをすかして暮らしたのだ、十分な教育も受けていない。東京へ帰っても衛生状態が悪く、ノミやシラミに悩まされ頭からDDTをふりかけられたのだ。今、新校舎が出来その教室で学ばせ、狭い運動場ではあるが精一杯スポーツに励んでいる姿をみるのが嬉しくて楽しくてたまらないと、また、私が採用した先生達は指導力もあり性格もよい人達である。少々のミスをおとがめ下さらぬようにと深々と頭を下げられました。PTAの役員の一人は下田校長の心の優しさに目に涙を浮かべておりました。
その後、校長先生とPTAの役員の人が東郷神社の社務所、海軍館の事務所へ足を運び外苑中の運動場のすぐ上の広場を無償で使わしていただきました。この広場で体育祭をした事もありました。
1955年頃に校長先生にも定年制がしかれ初代校長下田克三先生は外苑中学を去りました。お疲れ様でした。
私が外苑中に赴任した時の年齢は22歳。時の流れは早く現在83歳をこえました。外苑中の創設期を知っている先生は殆んどおりません。65年前の事を書いてみました。
私の記憶違いがあると思いますがお許しを願います。また、誤字・脱字・送り仮名の不備や文章の拙劣さ、ご判読を願えれば幸いです。そして、同窓会の相談役1期生の菊地良文さんやご協力下さいました2期生の松野茂さんにお礼を申し上げます。
2010年8月 元 外苑中学校教師 福島啓一
(注)GHQ:連合軍総司令部 DDT:殺虫剤
左が2期生の松野茂さん。
右が私(福島)です。
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